2024/3/26

斎藤 慶典 「レヴィナス 無起源からの思考」を読んで

斎藤 慶典 「レヴィナス 無起源からの思考」 (講談社選書メチエ) 読了。
https://www.amazon.co.jp/dp/B011QIHO9E

本書を通して、レヴィナスは、「他者」という概念を通して、「人が人を気にかける」ことを哲学的に説明していたことを理解しました。

プラトン以来の西洋哲学では、個人の自由が大原則です。もちろん、個人の自由も他人の自由を侵害する場合には制限されます。もっとも、その制限の理由は、制限しないと「万人の万人に対する闘争」が生じてしまい、自分の自由が保障されないからです。

しかし、あくまで自分の幸福追求のみを他人の自由尊重の根拠にしてしまうことには限界があります。たとえば、今、ガザで明日への希望を失っているパレスチナ人の人たちの境遇をどう感じるのか。自分の虚栄心を満たすという利益のために寄付をしさえすれば良いのでしょうか。

ユダヤ人であったレヴィナスは、第二次大戦中、自らナチスの強制収容所を体験するとともに、ほとんどの親類をホロコーストで失いました。しかし、そんな悲劇とは無縁に、人々は何事もなかったかのように日常生活を送っていきます。その状況に違和感を持ったことから、彼自身の哲学の構築が始まりました。

人は、この世に生まれ落ちて、他者と出会った瞬間から、その他者のことを気にかけなければならなくなります。それが倫理であり、責任です。自由は、この「他者を気にかける」という責任の上で、どのような行動を取るのかを決められるに過ぎません。

この考え方は、私にとって、とても馴染みやすいものでした。というのも、常々、ニュースのコメンテーターなどの言説に違和感を持っていたからです。たとえば、中東で戦火にあえぐ人たちの報道に接したとき、「私たち日本人にとっても決して他人事ではない」とよく言われます。その理由として持ち出されるのが、「中東が不安定化すると、日本への石油ルートの一つが絶たれる」といったものです。

しかし、それでは、日本とは関係の薄い、たとえばアフリカでの悲劇ならばどうなのでしょうか。自分と利害関係の無い人の悲劇は放っておいて問題はないのでしょうか。たしかに、自分の自由を出発点とする思想体系からすると、ここで、他人への善意を押し付けるのは、その人の自由への侵害になってしまうのでした。そういうことではなくて、自分自身への利害を超えて、ただただ、他人が受けている苦しみを放っておけない私の気持ちを代弁する思考の枠組みはないのでしょうか。

この点において、「他者を気にかける」ことを絶対の前提においたレヴィナスの哲学は、お互いを慈しみ合う人類の未来に希望を開くものです。

ただ、レヴィナスの哲学については、まだ消化し切れていないことがいくつかあります。

1つは、レヴィナスのイスラエル支持です。レヴィナスは、絶対平和ではなくて、「正義論」に基づく平和主義を主張したようです。正義に基づく戦争は正当化する考え方です。その背景には、ナチスがユダヤ人虐殺を行っている際に、それを止めに入る正義の戦争が必要だとする考え方があるように思います。しかし、古今東西、ほとんどすべての戦争は正義に基づくものではなかったのか。レヴィナスの他者論は絶対平和に結びつく余地はないのか。ここを今後の検討課題としたいです。

2つ目は、レヴィナス以外に、絶対平和の立場を哲学的に突き詰めた論考は無いのか、という点です。日本国憲法は絶対平和の可能性を持った第9条を基本理念の一つに掲げています。しかし、戦後の米国覇権主義追従路線の中で、その理念は骨抜きにされ続けています。ここで、あらためて、絶対平和に向けての力強い思想的バックボーンが欲しいです。

3点目は、ハイデガーの存在論との関係です。レヴィナスは、ハイデガーの存在論を批判して、自らの他者論を展開しました。しかし、この批判は当たらないとする研究者もいるようです。特に、日本では、ハイデガーを支持する哲学研究者が多いので、この点については、さらに勉強していきたいです。