2024/2/4

なぜ知識を求めるのか?

娘の学校で、「なぜ知識を求めるのか?」という課題が出たので、私も挑戦してみました!

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なぜ知識を求めるのか?

 

人間が知識を求めるのは、知識に底が無いからだ。歴史学者ヨハン・ホイジンガは、人間を遊びを本質とする動物、ホモ・ルーデンスであると喝破した。知識は、掘っても掘っても遊び続けることができる。人間を人間たらしめているのは、知識を追求し続ける存在である点にある。

 

知識を求める身近な場面は、知識を利用して、何かを成し遂げたい場合だ。たとえば、ハンバーグを作ってみたいとき。もちろん、ファミレスを思い出して、試行錯誤して作ってみるのも可能だ。しかし、ググって、動画やレシピを見て作る方が早い。そして、知識が、さらにその本質の姿を現し始めるのは、ハンバーグを一旦作り終えてからだ。もっと美味しくするには?ハンバーグの具材である玉ねぎも、その炒め方で味が変わるし、ニンニクもチューブなのか、みじん切りなのか、擦りおろしなのかで変わる。仮にみじん切りなら研いである包丁が必要で、研ぎ方はどうなのか、包丁の鋼材はどうなのか、包丁の持ち方がどうなのかも問われる。そのそれぞれについて、知識の蓄積は無限であり、どこまでも突き詰めていける。もっとも、知識だけあっても頭でっかちになるだけとの批判もある。体を使って経験していかないと何事も成し遂げられないと。たしかに、知識を使って実践しても、それだけではうまく行かない。動画の通りに包丁を研いでみても、1回や2回ではその通りには研げない。上達するには、体を使った練習や経験が必要だ。しかし、練習や経験にも知識が役に立つ。練習のモチベーションを保つための知識や効率的な練習の知識もある。やはり、何かを成し遂げるには、知識の裏付けが重要なサポートになる。

 

知識には、知識それ自体の探求を楽しめるという魅力もある。たとえば、夜空に輝く星は、どうなっているのか?天文学を紐解けば、その仕組みの知識の膨大な蓄積がある。数百万光年から、更にその先へと、気の遠くなる宇宙の世界の仕組みの世界へと誘われる。天空の星たちも、近代以前は、すべて地球の周りを回っていた。しかし、ガリレオ以降、地球も一つの星であって動いていると説明する方が合理的であることが分かった。さらに、近代以降は、ニュートンの引力で説明されてきた星の動きが、20世紀以降は、アインシュタインの相対性理論が活用される。その結果、わずかな惑星の軌道のずれも理由がつくようになった。そのアインシュタインも、今では、電子チップの中の原理にも利用されている量子力学の理論には生涯反対し続けた。量子力学は、物質の最小単位の存在自体、可能性の問題として把握しており、ミクロの世界では、それによって説明がつく現象が沢山発見されている。したがって、星を構成する最小単位である物質は、可能性としてしか存在しない。ただし、この量子力学も、最終的な正しさは担保されていない。反証可能性でその合理性を担保するのが科学だからだ。ニュートン力学、相対性理論、量子力学の知識を得ていくだけでも果てしないが、さらにその先を追求して行ける所に、知識の面白さがある。

 

知識はまた、知識そのものでは語り得ない世界への入り口を指し示してくれる。ここにもまた、尽きせぬ興味が湧き起こる。プラトンは、人間の思い描く理想・概念をイデアと定義し、しかし、そのイデアの絶対的な本質を指し示すことは出来ないと論じた。プラトンの多くの著作は、その本質を語ろうとする論者を徹底的に論破するソクラテスの言説からなっている。プラトン以後、20世紀にいたるまで、哲学は人間の主観性の中身から語られてきた。デカルトは、「我」を哲学の中心に据え、カントは主観を超えた「物自体」を論ずる価値は無いとし、ヴィトゲンシュタインは「語り得ない世界については沈黙しなければならない」とした。しかし、20世紀初頭、ハイデガーは、プラトン以前の初期ギリシャ哲学に遡り、「存在」そのものの本質に迫ろうとした。結果、主観性の行き着く先であった民主主義に限界を見て、ナチズムに期待を寄せた時期もあった。ただ、第二次大戦後は、主観性の行き過ぎによる技術偏重に対して、存在論の立場から警鐘を鳴らす役割も果たしている。他方で宗教も、知識を超えた世界を描いている。たとえば、仏教では、禅宗は修行によって成仏できると説くし、浄土宗は念仏が極楽浄土への道と諭す。では、成仏後の世界や極楽浄土がどのような世界かというと、それは、知識・言葉を超えた世界なので、人間の知識では計り知れないとされる。しかし、そこへいたる道は、知識・言葉によって指し示される。この道を究めていく過程でもまた、知識が大きな役割を果たしている。