2017/4/26

ANZAC Day 地元の追悼式典に行ってきた!

ANZAC Day 地元(Edge Hill)の追悼式典に行ってきました。

感想を一言で言うと、地域に根付いた、各々が思い思いに参加できる式典で、羨ましかったです。

ANZAC とは、Australian and New Zealand Army Corps (オーストラリア・ニュージーランド軍団)のです。第一次世界大戦中、トルコのガリポリ半島に同軍団が派兵され、犠牲者を出したことから、国に尽くした兵士を悼む記念日として、年1度のANZAC Day が設けられています。以来、第2次世界大戦、そして現代の戦争に至るまで、国のために戦って命を落とした兵を偲ぶ日にANZAC Day は、なっています。

わけても、オーストラリアにとって、第2次世界大戦中の日本との戦いは、心に大きな傷跡を残すものとなっています。なぜなら、日本軍は、オーストラリアに60回以上も空爆を行い、また、多くの捕虜の命を奪う(約20,000人のうち約8,000人が死亡)などの行動を取ったためです。

そのため、40年前、シドニーに住んでいたときは、「ANZAC Day は、日本人は外を歩かない方が良い」と言われました。

しかし、40年前は、オーストラリアに白人以外の移民を受け入れない白豪主義が終わって間もない頃でした。また、ケアンズは、オーストラリアの中でも、親日的な都市です。さらに、オーストラリア人と日本人のハーフの職場の同僚が空軍にいたことがあり、ANZAC Day のパレードで軍人に混じって参加したと聞きました。

これは、オーストラリア人の心の拠り所の1つ知る良い機会かも!と考え、ANZAC Day のイベントに参加することに決めました。

もっとも、一口に ANZAC Day のイベントと言っても、オーストラリアの各都市で、様々な催しが行われます。ケアンズに限っても、中心街のみならず、数万人単位の住宅地毎に、パレードや記念式典が企画されます。

今回は、その中でも、私が済むケアンズ郊外であるEdge Hill の軍人墓地での朝4時からの追悼式典に参加することにしました。

朝4時前、まだ星が夜空に一杯の中、車で家を出ると、普段は全く車の居ない休日深夜の道に、結構車が走っています。式典が行われる墓地に近づくと、道沿いに車を駐車してい所がありますので、車を停め、外に出ます。すると、隣の車から降り立った男性は、白い帽子をかぶりました。見ると、白服の軍服に身を包んでいます。奥さんと見られる方と、姿勢正しく早足で歩いていきます。他にも、夫婦連れや子連れで、地元の人達が歩道を静かに歩いていきます。多くはビーサンですが、軍人以外は、帽子はかぶっていません。私も帽子を脱ぎました。

人々の流れは、軍人墓地の入り口で止まります。予定されていた式典開始の4:10AMが訪れると、バイクの爆音が聞こえ、それに先導されて、墓地の中を人々の行列がゆっくりと動き始めました。満天の星空の中、墓地に設けられた歩道の両脇の小さなライトを頼りに歩んでいきます。ケアンズでの日中の談笑はなく、落とした声の雑談が耳に入ってくる感じです。

心の中では、日本がオーストラリアにひどいことをして申し訳なかったとつぶやきながら歩みを進めます。幸い、暗いので、私の黒髪と黒い目は余り目立たないようです。

20分ほど歩くと、式典会場に到着。発電機がうなり声をあげて、会場を照らしています。まず、20人ほどの白い軍服を着た兵士が隊列を組んで、3メートルほどの高さの記念碑に向かって整列しているのが目に入ってきます。人々は、それを取り囲んでいき、取り巻きの層がどんどんと増えていきます。

兵士の隊列の脇には、主だった参列者と見られる人たちが、一列に並んでいます。驚いたのは、その中に、娘の通う Edge Hill State School 小学校の生徒達3人の少女の姿があったことです。彼女たちは、全員ブロンドの髪をしています。

次第に、記念式典を囲む輪の層が厚くなり、近所から来たと見られる多くの人たちが集まってきます。夜明け前の暗がりで明瞭には分かりませんが、1,000人程度は集まったかと思われる人々の中で、黒髪とおぼしき人と判明できたのは、私以外では1人だけでした。辺りは、発電機の音とカエルの鳴き声以外は、静寂が支配しています。人々の会話は、ヒソヒソ声に押さえられています。

式典に集まる人々の流れもほぼ止まり、動いているのは、専属カメラマンだけとなります。人々のヒソヒソ声の会話もさらに途絶えてくる中、悲しみをたたえたトランペットの音が静かに響き渡ります。式典開始の定刻4:30AMです。

司会の方の開会の言葉とともに、黙祷の時間に入ります。兵士たちの前にある記念碑の横にはためくオーストラリアの国旗が半旗の位置まで下げられます。人々は、少しあごを引き加減にした状態で静止します。水面の波紋が徐々に消えていくような安らぎがこの場を包みます。やがて、静かな司会の方の案内で、賛美歌の斉唱へと進みます。参集した人々は、思い思いに知っているフレーズを口ずさみます。

賛美歌が終わると、オーストラリア国旗は上の位置まで引き上げられ、主だった人たちのスピーチに移ります。軍関係者の方や、退役軍人代表の方などのスピーチが続きます。彼らの口から「Japan」の名前が出てくる度に、胸が締め付けられます。スピーチの締めくくりは、ケアンズ高校(Cairns State High)の生徒2人の言葉でした。美しい韻を踏んだ詩のような語りでした。

黙祷、スピーチと式が進行していく間、整列した兵士たちは、状況に合わせて、敬礼、気を付け、休め、の姿勢を繰り返します。集まった人たちの中でも、退役軍人とみられる方々は、敬礼はしないものの、同じ動作をしていました。兵士の頃の動きがそのまま身についている感じでした。ただ、退役軍人以外の人々は、思い思いの格好をして式の流れを見守っています。

スピーチの後は、献花です。整列した兵士たちの脇に1列に並んだ人たちが、前から順番に呼ばれます。呼ばれた人は、順に、記念碑に花を捧げていきます。最後に献花したのが、娘が通う小学校の生徒達でした。一通り、献花が終わると、最後に司会者が、呼ばれなかった希望者に献花を呼びかけます。すると、2~3人が、集まった人の輪の中から進み出て、記念碑に花をたむけました。

献花の後は、さらに賛美歌が続き、式典の締めくくりは、ニュージーランドの国歌とオーストラリアの国歌でした。人々が思い思いに口ずさむ声が満天の星空の下に響き、散会となりました。

結局、暗がりの中で目立たなかったこともあり、幸い、「日本人だから」ということで不愉快な体験をせずに終わりましたただ、来年、妻子を連れてくることには、やはり、少し目立ちそうで躊躇する気持ちがあります。

式典を振り返ると、随所に、人々が思い思いに参集している様子が見られました。服装はビーサンが多くてラフだし、特に全員が「気を付け、休め」を押し付けられることもありません。賛美歌や国歌も、知っている人が、知っているフレーズだけ口ずさめば、それでOKです。

翻って、日本での経験を思い出すと、たしかに、8/6 広島原爆、8/9 長崎原爆、3/20 東京大空襲と、毎年、テレビでその追悼の様子が放映はされます。しかし、それらはあくまで、「広島」「長崎」「東京」中心に行われる催しの中継であって、それぞれの地域で死者や遺族の痛みを共有する会が開かれるわけではありません。ましてや、戦士した日本兵への追悼となると、戦友会の集いのようになってしまい、ますます近づき難い雰囲気になります。高齢化の進展とともに、それも自然消滅せざるを得ないような状況に追い込まれています。

もちろん、戦士した日本兵が死後の邂逅を願ったという靖国神社はあります(靖国でまた会おう!)。しかし、靖国は、純粋に個々の兵士の死を悼む場としては、あまりに屈折しています。

まず、強制的に日本兵として徴兵された朝鮮人の戦死者も、本人や遺族の意志に反しても、靖国に祭られてしまっています。そうした個々人の思いを無視する神社には、到底、黙祷を捧げる気にはなれません。

また、サンフランシスコ平和条約の締結条件であった、日本国による東京裁判の結果受諾という趣旨にも反しています。なぜなら、東京裁判で戦争を起こした張本人とされるA級戦犯も一緒に祭られてしまっているからです。兵士個人の死を悼もうと思って黙祷を靖国に捧げても、それは同時にA級戦犯の死を悼むことになります。そのことは、突き詰めれば、サンフランシスコ平和条約の否定です。

さらに、靖国は、「国」に命を捧げた人からは、微妙にズレています。というのも、神道であるがゆえに、「天皇」に命を賭した人を祭る神社だからです。そのため、たとえば、明治維新の志士たちのなかでも、たまたまタイミング的に天皇への「逆賊」の汚名を着て亡くなった人は、靖国には祭られません。

以上のことから、私は、どうしても、日本兵たちが心の拠り所にしたと言われる靖国で、兵士への思いを黙祷に代えることができません。

であれば、千鳥ヶ淵戦没者墓苑という選択肢もあります。たしかに、ここは、上記の靖国のような屈折した事情はありません。しかし、ここで供養されているのは、太平洋の各地の戦闘・飢餓で命を落とされた無名戦士のみです。名前が分かっている兵士は、ここではなくて、靖国の名簿に自動的に載ってしまいます。

戻らなかった兵士への千羽鶴や、ほとんどが戦死してしまった10代の若者たちのクラス名簿を見るとき、とても心が痛みます。彼らが流した血と涙があって初めて、平和な日本での生活を享受できていることを心から感謝しています。

しかし、そうした気持ちを共有し合う場が無いことがとても悲しいです。

オーストラリアでは、国に対して身を捧げた人、引いては自由への戦いに身を捧げた人への思いを表現できる場が、地域に根付いています。それも、別に強制されているわけではなく、思い思いに参加できるようになっていることに、羨ましさを感じました。