2012/6/25

なぜ、「自由」は大切なのか?

人間にとって、なぜ、「自由」が大切なのか?

この問題に、最初に正面から取り組んだのは、大学で憲法を学んだ時でした。

憲法を学び始めて意外だったのは、実は、憲法は、人権を守るための仕組みをつくっているだけであって、人権が重要であることの理由は一切説いていない点です。

ただ、そんな中でも、憲法学の理論派学者である佐藤幸治先生が、私が大学生の時に出版した第2版で、その理由について述べた一節がありました。当時、その文章を読んで、感動で、涙が止まらなかったものです。そこには、「人権は、それが人格的自律性を尊重するものであるが故に重要なのだ」と記されていました。佐藤幸治先生は、人権の本質を人格的自律性と言い切ったが故に、理論的一貫性を持った憲法体系の構築に成功するのですが、他方で、逆に、説明困難な個所にもぶち当たっておられました。そんな困難へのリスクを抱えながらも、「人格的自律」が本質と言い切った佐藤幸治先生の凄味に感激しました。

しかしながら、人権の本質が「人格的自律」としてしまうと、それでは、なぜ「人格的自律」が重要なのか?という疑問は残ってしまいます。

この問いに対する1つの回答は、法哲学、なかんずく、刑罰論・責任論に求めることができます。

それは、近代社会においては、国民が主権者である民主主義国家であることに端を発しています。主権者である国民に対しても、社会秩序維持のためには、刑罰を科す必要があります。その科刑の根拠となるのが、みずからの自由意思によって選択したのだから刑を科すという理屈です。

近代科学の立場からは、人間の行動も、すべて神経細胞等の可視化された物理的な物に基づいてなされます。したがって、自由意思といった見えない物は、近代科学的には認められない概念です。しかしながら、近代社会において、刑罰を正当化するために、物理的には存在しえない物も概念としてその存在を仮定する事にしているのです。

なるほど、「自由」は、社会秩序維持のためにつくられた概念である、というのは、一定の説得力を持ち得ます。

しかしながら、それも、どうもしっくり来ないのです。やはり、自由というのは、社会の仕組みをうまく機能させるための概念といった功利的なものではなくて、もっと、それ自体として重要性を持っているように思うのです。

たとえば、人間は、その存在そのものの本質に、「自由」ということがあるのではないでしょうか。人間は、「なぜ?」を問う所に、他の動物とは異なった特性を持っているのであって、「なぜ?」を問うことは、まさに自由そのものを指します。「なぜ?」を問う自由があったからこそ、その先への想像力を持っていたからこそ、人間は、ここまで発展してきました。

あるいは、人間の発展というのは、それ自体、善ではないという考え方もあり得ます。しかし、そのような発想が出来ること自体、「なぜ?」の自由があるからこそに他なりません。

さらにまた、人間の存在の本質が「なぜ?」にあるとして、人間は、その存在自体が、自然界あるいは宇宙にとって否定されるべき存在なのかも知れません。そうだとすると、人間の存在を基礎付ける自由の大切さも、また、失われることになります。しかし、こうした考え方も、また、「なぜ?」を考えられるからこそ生じて来る発想です。

「自由」は、自らの存在の否定の可能性までをも秘めた、徹底性を持った概念です。そうした狂気性をも兼ね備えた概念が、まさに、「自由」です。人間の持つ素晴らしさと狂気性との二面性は、人間がまさに、「自由」な存在であることをその本質とするからです。

「自由」とは、まさに、人間の性格そのものを言い表す概念であって、だからこそ、「自由」は大切なのです。