2012/3/4
「持ち場」で尽くすことの限界
40代も半ばに差し掛かり、学生時代の同期や、少し上の先輩方も、世の中の最前線で活躍する状況になってきました。そんな方々のお話を聞いている中で感じるのが、「持ち場」で尽くすことの限界です。
たとえば、法科大学院に関わっておられる方がいます。
法科大学院は、司法制度改革の結果、司法試験受験資格を得るために必要とされるようになった教育課程です。ところが、5000名の法科大学院の定員に対して、司法試験合格者は2000名に過ぎません。しかも、司法試験は再受験も3回まで可能なため、合格枠は更に狭まります。さらに、合格しても、世の中には増加した弁護士を吸収できるだけのニーズがありません。
誰もが平等に受験でき、狭き門だったが故に合格後の就職も今より確保されていた旧司法試験制度と比較して、今の法科大学院の合理性には疑問符が付く所以です。
そうした不合理性は重々認識していながらも、与えられた法科大学院の仕組みの中で、最大限の努力を尽くすしかないと奮闘しておられる方がいました。
また、他にも、たとえば、原発事故被害者の救済に取り組む弁護士の方がいます。
弁護士の立場としては、当事者としての被害者の利益を代弁するため、完全賠償を主張します。しかし、東電が賠償責任を負い切れない事が明らかになった今、その賠償は、間接的に国民の税金から支払われることになります。その場合、福島の賠償について国民的コンセンサスが得られているのかについては、疑問符が付きます。
そうした点について疑念を持ちつつも、弁護士としての職責を全うしていらっしゃいます。
もう1つ例を挙げれば、グローバル企業を支援するコンサルタントの方がいます。
大企業が、グローバル化に伴って組織自体も米国スタンダードに合わせるのだとすれば、従業員間の給与格差は拡大の一途を遂げるのみと考えられます。大企業へのコンサルティングは、日本でも広がりつつある所得格差を更に拡大させる事に手を貸しているのかも知れません。
その方も、自分の持ち場で職責を全うするのみ、と言っていました。不合理性を色々考えても疲れるだけなので、考えるのはもう辞めた、と。
しかし、日本の歴史を振り返れば、「持ち場」の部分最適を求め、全体戦略を見失った結果、悲劇を招いた事例は、枚挙にいとまがありません。
直近の例で言えば、福島原発事故です。社会の一部の構成要素にしか過ぎない「経産省・電力会社・メディア・御用学者」=「原子力ムラ」が、自分たちだけの「持ち場」における利益の部分最適を求め、全体戦略を失って突っ走った結果が、あの事故の大惨事につながりました。
また、第二次世界大戦における日本の敗戦も然りです。敗戦の原因は色々とありますが、1つ大きいのは、関東軍等の「部分」の暴走を止めることができず、全体戦略を欠いてしまった点です。
ここで考えなければいけないのは、上記の例で挙げた方々は、いずれも社会の最前線・中枢で戦っているということです。彼らが全体戦略を考えた上で行動しなければ、誰もそれを行うことはありません。そういう立場にいる人たちに全体戦略に基づく行動をする意欲が欠けているということは由々しき問題です。
では、どうすれば良いのでしょうか。
まず、日本の進んで行く方向感を自分なりに見通せる目を養うことが大切です。
上に挙げた人たちは、私など及びもつかない優秀な人たちです。その優秀さを自らに与えられた業務スキルを磨くことにのみ注ぐのではなくて、戦略的視野を養う方向にも振り向けて頂きたいです。そのためには、哲学・歴史観・社会観等の教養の視点が重要になります。一筋縄で身に付くものではありませんが、私がスタッフをしている「おとなの社会科」は、そうした教養を養うことを目的にして活動を続けています。 おとなの社会科
もう1つは、合意形成を行うためのロジカル・ファシリテーション能力を身に付けることです。
自分が進んで行くべき戦略的方向感が見えたとしても、民主主義の下では、人々と合意形成を行いながら意思決定に持っていく必要があります。その際に有効な手法が、ロジカル・ファシリテーションです。目指すのは、英米的なディベート方式ではなく、EU的な民主的意思決定手法です。その方が、日本人には会っていると思えるからです。こうしたロジカル・ファシリテーションについて、今年のおとなの社会科では、各偶数月に取り扱っています。 おとなの社会科偶数月
私自身、戦略的視野に基づく行動は、ほとんど取れていません。しかし、おとなの社会科で学ぶことを通して、少しでも身に付けていくべく努力しています。また、こうして戦略的視野の必要性を訴える文章を書くことで優秀な人たちの動きに影響を与えることができるなら、それこそ大きな社会貢献をしていることにつながります。