2009/10/28

「中庸」ということ

最近、人事マネジメントや教育論などを学んでいて、思うことがあります。それは、ほとんどの学問領域では、極論に説得力を持つものは少なく、極論と極論の間の程よい落とし所の部分に、説得力ある理論がある、ということです。

中国では、孔子の時代から「中庸」という概念があります。人の処世の上で、極端に走らぬほどよい中ほどを取っていくという考え方です。この「中庸」は、上記の「程よい落とし所」に該当する概念です。そして、中国の「中庸」の概念自体は、決して、極端と極端を足して2で割るというものではありません。極端に走らずに、徳をもって事に当たるのをよしとしています。

ただ、「徳」というのも私にとっては抽象的なので、少し自分なりに何をもって「中庸」になるのかを考えてみました。

なお、西洋には、類似している考え方に、ヘーゲルの弁証法があります。1つの考え方(テーゼ)と反対の考え方(アンチテーゼ)との対立の中から、新しい考え方(シンテーゼ)が導き出されるとする理論です。この弁証法も、テーゼとアンチテーゼを足して2で割ればシンテーゼが生じるという理論ではありません。やはり、シンテーゼにはシンテーゼなりの理論的裏付けが必要とされます。その意味で、私見では「中庸」と同じですが、「中庸」の方が言葉として使いやすいので、今回のブログでは「中庸」という言葉を使って考え方を整理してみます。

まず、1つの論点に対して、極論というのは、なかなか説得力を持ちにくいです。たとえば、政治のあり方に個人主義と全体主義があります。個人主義は個人を尊重する高邁な思想ですが、個人も全体を前提としなければ存在しえない以上、一定程度は全体主義を取り入れなければ政治は機能しません。そのため、適切な政治のあり方は、個人主義と全体主義の真ん中に存在しているということになります。

問題は、その適切な政治のあり方(中庸)を確定させる手法です。中庸を徳と同一視しないのだとすれば、どのような概念で説明できるのでしょうか。

私は、この説明の際に、対立する極論とは別の価値観を持ち込み、その価値観に基づいて立論するときに、説得力のある理論が生まれるのだと考えます。たとえば、個人主義と全体主義との対立を考える場合、「個人の尊厳」という個人を最大限に尊重する価値観を持ち込めば、原則として個人主義を貫くが、他人の個人主義を妨げる場合にのみ全体主義の観点から、個人主義に制約が課されることになります。

さらに問題は、理論の前提となる「価値観」は、どのようなものであれば説得力を持ちうるかです。

私は、説得力を持ちうる「価値観」は、「歴史」と「地理」に裏打ちされたものだと考えています。「歴史」は、現在から数百年さかのぼった時点から現在をとらえます。「地理」は、日本だけでなく世界を視野に入れて考えます。この2つの視点を踏まえることが切り口として重要と考えます。

・・・以上、非常に抽象的ですが、中庸について私が考えていることです。抽象的ではありますが、色々な理論に当てはめるときには有効な道具になっています。どのように当てはめていくかについては、また、別の機会に紹介していきたいと考えています。