2008/6/29

想像力の使い方

先日のブログ「人間は自然の摂理の中の一環か?」で、人間は、言葉による想像力を持つにいたったために、自然の外にある存在として自然の摂理から外れている、ということを書きました。 http://imurayama.tea-nifty.com/test/2008/06/post_9099.html

では、どうすべきか?とうことについて、少し考えが進みましたので、報告します。

人間が、「想像力」が原因で自然を破壊しているであれば、解決策は2つ考えられます。1つは、想像力を捨てることであり、2つ目は、想像力の使い方を工夫することです。

1つ目の、想像力を捨てることは、人類全体の課題としては難しいことだと思っています。

たとえば、仏教の僧侶は俗世の欲を捨てようとする点で、想像力を捨てていると考えられます。彼等は、自然の破壊者となることもないです。しかし、歴史的にみて、彼等の生き方が俗世のすべての人間に行き渡るとは思えません。だからこそ、逆に、欲を捨てられる彼等の姿勢が貴重で尊いのだと思います。

また、欧米には、昔ながらの自給自足の生活を続けるアーミッシュという集団もあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5 しかし、彼等の生き方が、社会全体に行き渡るという状況にはなっていません。

あるいは、共産主義は、自由に資産形成をしようとする人間の欲望=私有財産を抑制する20世紀の壮大な実験でした。しかし、これもソ連の崩壊とともに影響力を急速に失いました。

そこで、2つ目の「想像力の使い方の工夫」です。

結論からいえば、「想像力」を「相手の立場」に向ける、というものです。

この点で、「相手の立場」に立って考えることが、実は、自分のためになるということをトルストイ『人生論』が語っています。 http://www.amazon.co.jp/dp/4102060170 トルストイは、人間は本質的に自分の幸福のために生きるものだと言っています。ただ、人間にとって最大の恐怖である「死」を克服するには「人のため」に生きることだと言います。なぜなら、「人のため」に生きれば、自分が肉体的に滅んでも他人の心の中に永遠に生きることができるからです。したがって、「死」を克服すべく「人のため」に生きること、それが人間にとって最大の幸福であるとするのです。

ただ、トルストイのいう「人のため=相手の立場」というのは、あくまでも人間が対象でした。彼が生きた20世紀初頭までであれば、世界規模での自然破壊は顕在化されておらず、それでも良かったのでしょう。

しかし、地球規模の環境破壊が顕在化し始めた現在、「相手の立場」は、「人間」にとどまらず、「動物」さらには「地球自体」にまで広げていく必要があります。そうしなければ、人類が将来滅亡してしまう危機にさらされています。現代の倫理は、「相手の立場の想像力」という「相手」に「動物」「地球自体」に拡大せざるを得ないと主張する著書があり、なるほど、と膝を打ちました。

アンソニー・ウエストン著、野矢茂樹訳『ここからはじまる倫理』(春秋社) http://www.amazon.co.jp/dp/4393323041

もう一度、結論を申し上げれば、想像力を持つことによって自然から疎外された人間は、「他人=将来の子孫」「動物」「地球自体」の痛みに想像力を働かせることよって、自然破壊に一定の歯止めをかけるべきだ、ということです。

しかしながら、これを自分の日常生活に置き換えてみると、なかなか十分に実践できるものではありません。「他人」「動物」「地球自体」に思いを馳せることも大切なのは分かりつつも、まずは、「自分(家族)」がしっかりと食うために生きていくことが現実問題としてあります。そのためには、他人を押しのけてでも生きていかなければならない場面がどうしても出てきます。ただ、まずは自分が自立して食っていけて、余裕のある状態でなければ、自分以外の役には実際には立てないと思います。「自分のため」と「自分以外のため」、現実には、その中間のどこかで折り合いをつけて生きていくしかないのだと思います。

そんな中、最近、「自分以外のため」の活動として実践できたと思っていることを3つあげてみます。

1つ目は、このブログで「自分以外のため」に想像力を働かせる意義を書き、読者の皆さんに考えるきっかけを提供できたことです。

2つ目は、渡辺pacoさん主催のヤマガラの森に娘のプラカードをつけた木を植林したことです。 http://pacolog.cocolog-nifty.com/yamamori/

3つ目は、1週間ほど前、白い杖をついて懸命に道を歩いていた方に、道案内をして差し上げたことです。

いずれも恥ずかしくなるくらい、小さなことではありますが、「自分以外のため」の活動を意識して、積み上げていくことが大切ではないかと考えています。