2008/3/9

人材登用にあたっての「勘」

今夜の大河ドラマ「篤姫」は、島津斉彬(高橋英樹)が養女の篤姫(宮崎あおい)に対して、将軍家への輿入れを念頭に置いていることを告げる場面がメインでした。斉彬が輿入れ念頭の意を告げたのに対して、篤姫は、「なぜ私を?」と問います。斉彬は、「煎じ詰めればわしの『勘』じゃ」と答えるのでした。

日本のオーナー企業や中興の祖が実権を握る会社では、特に重要な役員登用・管理職登用は、経営者の「勘」によるケースが多いです。人事部や人事コンサルタントの役割は、「勘」を対外的に体裁を整えるための「理屈付け」にある場合も多々あるのではないかと思います。

この場合の「勘」というのは、究極的には主観的判断なのですが、単なる「思いつき」ではありません。その人の半生にわたる経験・知恵の積み重ねの集大成の上にこそ成り立つ合理的な判断です。ただ、それを「言葉で説明しろ」と言われても説明しつくせない、そういう意味では主観的な「勘」なのです。いわば、左脳的合理的判断の上に立つ右脳的感性判断と言えましょう。

「勘」による人材登用の場合、危うさと共に、合理性も持っています。

「危うさ」は、最終的には「主観的判断」であるため、エコヒイキ等に偏ってしまい、組織にとって害をもたらす人事である可能性があることです。特に、イエスマンを近くに侍らす契機にもなりかねない危うさを持っています。

他方、合理性は、「勘である」と言い放つことは、登用した人物が登用について全責任を持つと公言したと同じ力を持つ、ということです。「勘」は、その人物にしか分からない思考回路なので、責任を取らざるを得ないのです。

ハリウッド映画でも、意外な者を登用するとき、登用される人物から、「Why Me ?(なぜ私なのですか?)」というセリフを聞く場面が良くあります。それに対しては、登用した人物から、意外ではあるが視聴者を「なるほどそうか!」と納得させる理由が述べられます。日本のように、「私の勘だ!」と言う場面は、私の記憶ではありません。これは、多民族国家で理屈が無ければ丸く収まらないアメリカと日本との違いです。

思えば、大きな国難を乗り切った明治時代は、日本の指導者の「勘」が冴え渡った時代ではなかったかのでしょうか。

日本でも、太平洋戦争に至る過程では、海軍のハンモック・ナンバーに象徴されるように、人材登用も全くの機械的な年功序列に陥ってしまいました。

今また、グローバル化の大海原に旅立っていくべく運命付けられている日本において、改めてすぐれた「人材登用の『勘』」が求められているように思います。